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意外と知らない「蕎麦」「うどん」「そうめん」「ひやむぎ」誕生の歴史を時系列で振り返ってみました

今も昔も日本人は麺が好きで様々な麺文化が日本各地に根付いています。
中でも「蕎麦」、「うどん」、「そうめん」の歴史は古く、歴史的な資料や浮世絵、歌舞伎などにも頻繁に登場します。

ひやむぎの歴史を紐解く過程で、ひやむぎとこれら3つの麺文化がどのような経緯で生まれたのか知ることができたので「蕎麦」「うどん」「そうめん」「ひやむぎ」誕生の歴史を時系列でまとめてみました。

最初に生まれたのは「そうめん」

まず、一番最初に生まれたのは「そうめん」と言われています。

そうめんは中国にあった索餅(サクベイ)という菓子が由来とされ、鎌倉時代に中国へ渡った僧や商人によって日本へ伝来し、今のそうめんの原型となりました。

最も古いものだと文永八年(1272年)の資料に「七夕のお祝いとして神殿へそうめんと酒を供えた」との記述があり、室町時代以降は様々な場面でそうめんの名前が記述されるようになっていきます。

当時のそうめんは僧侶や貴族、武家などの上流階級しか口にすることはできず、酒のつまみや精進料理として提供されていました。

庶民の口に入るようになったのは江戸時代以降で、技術と熟練が必要とされることから「そうめん師」と呼ばれる職人が存在していていたことも分かっています。

2番目に誕生したのが「ひやむぎ」

意外に思われるかもしれませんが、ひやむぎは蕎麦やうどんより歴史が古く、700年以上前から食べられてきました。

ひやむぎの特徴である切麺の文化の原型は中国にあり、そうめんが伝来した時期とほぼ同じ鎌倉時代に日本へ伝わってきたと考えられています。

関東地方を治めていた北条重時に関する資料(1261年)の中に、京都でひやむぎを食べたときの記述が存在し、その40年後には豊後の国(大分県)でもひやむぎが食べられていたことから、かなりの早さで地方へも伝播したようです。

ちなみに当時のひやむぎは「切麦(きりむぎ)」と呼ばれ、手延べで作っていたそうめんとの違いを表すためにこのような名前になった可能性があります。

初期のひやむぎもそうめんと同様に酒のつまみとして提供されていて、蒸したものは「蒸麦」、ぬるま湯に入れたものを「ぬるむぎ」、熱湯に浮かべたものを「熱麦」などと呼び、食べ方によって名称を変えていました。

3番目に誕生したのが「うどん」

「うどん」の名前が初めて登場したのは1351年に記された法隆寺の『嘉元記』で、戦で奮戦した僧兵をもてなすお祝いの席で出されました。

うどんの発祥に関しては空海が平安時代に中国から技術を持ち帰り香川で広めたという説や1241年に宋から帰国した円爾が製粉技術とともに福岡から広めたという説もありますが、『嘉元記』以前の資料に「うどん」という名が記されているものは無いようです。

仮にうどんがもっと古くからあるのであれば、そうめんやひやむぎと同じように1200年代の資料に記載があるはずで、現時点ではうどんが生まれたのはそうめんやひやむぎよりも後になると言えます。

当時のうどんの食べ方は湯だめうどん(茹でた麺を水で洗ってから湯の中に戻す)が一般的で、そうめんやひやむぎと同様につけめん風にして食べていたそうです。

これは個人的な推察になりますが、うどんがそうめんやひやむぎよりも誕生が遅れた理由は「茹で時間」にあると考えています。

うどんは麺が太いため茹で時間が長く大量の水や燃料を消費します。水道設備や燃料の乏しい時代においては、なるべく効率よく食事を用意する必要があったので太い麺よりも細い麺の方が需要が高かったのではないでしょうか。

江戸時代以降にうどん屋が全国的に普及したのも、水道設備の整備や燃料の供給網が発達してうどんを短時間に大量に茹でることが簡単になったからではないかと考えられます。

最後に生まれたのが「蕎麦」

日本における蕎麦の歴史は古く、蕎麦の栽培に関しては9000年以上前の遺跡からの花粉が見つかったり、3000年前の遺跡から種子が出土したりしています。

ただ、この時代の蕎麦の食べ方は麺にして茹でるのではなく、アワやヒエなどと同様に粉にして米と一緒に炊いていました。一度蒸してから乾燥させて冬場の保存食にもしていたようです。

その後、鎌倉時代あたりから蕎麦を使ったかい餅が誕生し、現代で言う蕎麦がきや蕎麦もちが広まりました。戦国武将の秀吉はこの蕎麦がきを好んで食べたと言われています。

蕎麦を麺状にしたと思われる「ソバキリ」という記述が初めて見つかったのは、長野県の寺院のことを記した『定勝寺文書』です。

1574年2月10日に記された文章には「仏殿の修復工事終了と竣工祝いに際して、そば粉が寄進され金永なる人物がソバキリを振る舞った」という記述が発見されています。

現在も蕎麦で有名な長野県では、かなり古くから蕎麦を麺にして食していたことが分かり、江戸時代に入るとこの蕎麦切りの文化が全国に広がり各地に蕎麦屋が誕生しました。

特に江戸では人口増加と食文化の発達とともに蕎麦屋が増えていき、幕末(1860年頃)には3763軒もの蕎麦屋が存在していたと言われています。

【特撰ひやむぎ きわだち】
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